文系PhDの日常

実学から遠い文系;博士号ほしい;海外留学中

自己満足の研究?自分の審美眼に適う研究にこそ価値があるのだ

こんにちは、はたえるどです。

 

以前にも何回か紹介させていただいたこちらの小説:

 

タイトルにもある喜嶋先生のもとで、研究者として修業を積む主人公(理系院生)の話です。

この小説のなかで、主人公と研究室の先輩、中村さんがこんな会話をする場面があります。

 

「中村さん、自分の研究の価値は、わかっているんでしょう?」
「正直なとこ、わからんね」
(略)
「ということは、自己満足に過ぎないってことですか?」
「自己満足できたら、それはもの凄く良い状態だね。自分が満足できるなんて、そんな素敵なことはない。それは価値が大ありだ」 

 

これを最初に読んだときは、「そうそう、研究は結局自己満ですもんね」というぐらいの軽い気持ちで読んでいたのですが、その後再読して考えが変わりました。

 

具体的には

  • ここで言われている「自己満足」とは、何かをとりあえずやってみて、「やれることはやってスッキリしたわ。満足満足」というようなレベルの自己満足とはレベルが違う;
  • 審美眼のある自己を満足させることに意義があるのだ

という二点に思い至りました。

 

つまり、ここで中村さんの言っている研究上の自己満足とは

 

「世間の役には立たないけど、いいの。私はやってて楽しいから」という開き直りの自己満足ではなく

 

自分の研究の価値を一番把握できる自分自身が、シビアな目で研究の良し悪しを判断したときに、「これは良い研究だ」と満足できる研究こそ価値がある

 

ということじゃないかと気づいたわけです。

 

そんなこと当たり前って?

でも、実学から遠い文系だと「全然世間には理解されないし、直接は特に役に立たない研究だけど、やってる本人は超楽しい!」ということが間々あるのです。

そうするとどうしても、「いいの、私は楽しいから」という考えになりがちなわけで……。

 

しかし職業研究者になる以上は

「やってて楽しい!自分の人生を楽しくさせてくれる研究」をするアマチュア状態から

「やってて価値がある。自分の審美眼と照らし合わせて満足できる」研究を生産するプロ状態への移行が不可欠であろう

と思ったのでした。

 

そして、この審美眼は、研究者になろうというような人はある程度は生まれつき備わっているにしても、論文を読むなどインプットを増やして磨き上げる必要があるでしょう。

新進気鋭の若手研究者・落合陽一氏も、学生時代は一週間で論文百本ノックとかしてたって言いますもんね。

私も修行を怠らないようにしたいものです。

 

今日はこんなところで。